ツキノワグマのオセロゲーム 〜集落内の芋穴で冬眠していたクマと薪炭林の変遷〜

 浅草山麓エコ・ミュージアムで指導業務を担っている地元の自然観察指導員の方から、「この冬(2019-2020シーズン)に人家の裏の芋穴で冬眠(冬篭り)していたクマが居たらしい」という情報を頂きました。そして春先には芋穴の近くでツキノワグマの新しい大量のフンが連日確認されたそうです。この自然観察指導員の方の情報が本当だとすると、「里山を行動圏とし、(芋穴がある)集落の生活圏の中で冬眠するツキノワグマが居る」ということを意味しています。

 「芋穴」という言葉を聞いても多くの方はイメージできないかも知れませんが、「芋穴」とは「農家の方が秋に収穫した作物を冬の凍結から守るために山に作った作物貯蔵用の横穴(手掘りトンネル)」を言います。本州では深いところの地温は冬でも氷点下にならないことを利用して、当地では昔から農家の方が貯蔵庫として芋穴を使用していました。芋穴は多くの場合、集落の近くの里山や場合によっては人家の敷地内にありますが、貨幣経済の発展や産業構造の変化、生活様式の現代化などで、現在では使われていない芋穴も多くあるようです。

 ツキノワグマの生息域を概観すると、魚沼地域(特に魚沼盆地のある旧南魚沼郡と旧北魚沼郡)の場合、市街地の東側には100名山の越後駒ヶ岳や平ヶ岳など、標高2,000mを超える高い山があり、尾瀬国立公園や越後三山只見国定公園に指定されるなど、市街地の東側は広大なブナの天然林を有する「豪雪地における代表的なツキノワグマの基盤生息域」です。

 その一方で市街地の西側は「魚沼丘陵」と呼称される標高1,000m以下の低い山や丘が新潟平野へ向けて連なっていますが、ここは江戸時代の古文書が示す通り、「山論(集落間での山争い、薪炭の争奪)が頻発するほど過剰に伐採され続けてきた集落周辺の薪炭林(魚沼地方の言葉で”ボイ山”と呼称される)※」でした。そして魚沼地域の市街地の西側は江戸時代以降から昭和30年代まで、樹木の過剰伐採のためボイ山はクマのエサ場となり得ず、ツキノワグマの生息域としては成立しませんでした。

 ところが近年、魚沼地域の市街地の西側(魚沼丘陵)でもツキノワグマの目撃情報が増え続けており、環境省が行っている野生生物の全国生息分布調査の結果も、これを裏付けています。その理由として、戦後に大きく進んだ「薪炭から電気・ガス・石油への転換(燃料革命)」と「旧薪炭林(ボイ山)の成長(樹木の資源量の増大、江戸時代以前の森林に戻りつつある)」に伴うツキノワグマのエサ場化、「中山間地域の人口減少(過疎化)」が考えられます

 魚沼市では2019年の秋(10月)にツキノワグマが連日市街地に出没し、深刻な人身被害が生じましたが、前述の「集落内の芋穴で冬眠していたツキノワグマ」の情報も加えて現状を評価すると、「市街地の東西からツキノワグマが行動圏を拡大している魚沼地域の様子」が浮かんできます。これはちょうどオセロゲームで白黒のコマが連続することで陣地を広げてゆくのに似ています。

 一般的には「開発行為のために奥山が荒廃している」「奥山にエサが無いからクマが里に出てくる」「里でエサを食べたらクマは奥山に帰ってゆく」と言われるようですが、こと新潟県魚沼地域の現状を見ると、「戦後の燃料革命を転換点」として、オセロゲームのように「事態は新しい段階(旧薪炭林を足場としたツキノワグマの行動圏の拡大連鎖)に進んでいる」ように思います。

 

 

※魚沼地域において山論(山争い)を頻発させた江戸時代の里山薪炭林(ボイ山)の過剰伐採の背景として、江戸幕府が進めた新田開発に伴う「蒲原平野(越後)での人口増加」と「年貢米の輸送ルート(魚野川・信濃川)」を用いた「上流域(魚沼地方)から下流域の消費地(長岡藩・新潟湊などの街場)への薪炭材の供出」が考えられます。

 

※本稿では「新潟県魚沼地域における標高800m以上のブナ天然林エリア」を「奥山」「標高500m以下の旧薪炭林エリア」を「里山」と定義しています。また標高500mは当地における稲作の作付け限界標高(冬季最高積雪深が影響)として位置付けています。そして標高500mから800mの間の山地の利用形態は様々ですが、古文書等によれば佐梨川・羽根川・守門西川・守門川流域など、「集落の近くの山々の多くは標高1,000m近くまで薪炭林として利用されていた」ようです。つまり当地においては、江戸時代から昭和30年代まで、標高1,000m以下の山域の多くは薪炭林の過剰伐採のためツキノワグマの行動圏になり難かったとも言えます

 

※旧入広瀬村教育委員会が昭和50年代に制作した記録映画「熊狩りの記録」では、守門岳の標高1,000m以上の山域で複数の狩人が「シシ(クマのこと)山小屋」に寝泊まりしながら、古来からの厳しい作法に則った残雪期の巻き狩りを行い、仮にクマを捕獲出来た時には「村人に平等に分配し」「集落総出で慰労の宴が催される様子」が残されています。つまり、新潟県魚沼地方におけるツキノワグマは、昭和50年代であっても「奥山(標高800m以上のブナ天然林エリア)に行かなければ見つけることが出来ず」、ベテランの狩人が複数携わっても「捕獲することが簡単ではない希少な狩猟動物であった」事を意味します

 

<参考資料>

「広神村史」 旧広神村編

「熊狩りの記録」 日本映画社・入広瀬村教育委員会