里山のツキノワグマ 36 〜守門岳南麓ではクマの生息域は4.25倍に増加〜

 今朝(2020.10.13)も里山エリア(エコミュージアム園内ではありません)の早朝定点観察を実施しました。小雨が降り続く天候でしたので、ツキノワグマのフィールドサイン(生態痕跡)は発見できませんでした。昨日(2020.10.12)は新潟県下に「クマ出没特別警報」が発表されました。当初から「山の木の実が不作なので人里へのクマの出没が予想されます」という内容でアナウンスされていましたが、死亡事故の発生を受けてより強く警戒を促す内容となっています。

 さて、旧入広瀬村の教育委員会が無形文化財の記録として昭和59年に制作した教育映画「熊狩りの記録」では、当時のツキノワグマの生息域が映像とともに残されています

 

昭和59年 入広瀬村教育委員会制作 教育映画「熊狩りの記録 大白川の狩猟習俗」より

<こうした貴重な映像を残して下さった先達(せんだつ)に深く感謝いたします>

<昭和59年当時、ツキノワグマの基盤生息地は守門岳の標高1,000m以上のブナ天然林エリアでした>

 

 この記録映画では「旧入広瀬村大白川集落のマタギ文化」が紹介され、山中に「シシ山小屋」と呼ばれる前線基地となる山小屋を前年から設営し、泊りがけで奥山(ブナ天然林)を舞台にツキノワグマの狩猟を行っています。そしてこの映画では「ツキノワグマは守門岳主峰の袴岳の南西側に広がる本高地沢を中心とした標高1,000m前後のブナ自然林」で発見・捕獲されています当時のツキノワグマは「泊りがけの巻き狩りが必要なほどの奥山」に生息する希少な存在であったと言えます

 この映画の時代背景として、新潟県魚沼地方における旧薪炭林(ボイ山と呼称)の変遷を理解する必要があります。当時は農村地域における昭和30年代の燃料転換により薪炭林が伐採されなくなってからまだ20年ほどしか経過していません。そして江戸時代から昭和30年代まで凡そ20年未満のサイクルで伐採が繰り返されたため、昭和59年の段階では「人里に近い守門岳南麓の標高1,000m以下の旧薪炭林は、ツキノワグマの生息域(エサ場)として未成熟であった」と思われます。

 ところが現在では、集落の里山もクマの目撃情報が頻発するツキノワグマの行動圏となっています。当方がこの映画の撮影ポイントを基準(標高1,000m以上の守門岳南麓エリアを当時のツキノワグマの基盤生息域と仮定)として計測したところ、令和2年の現在では「守門岳南麓のツキノワグマの生息域は昭和50年代の4.25倍(4.238平方kmから18.011平方kmに増加)となっていますこうした「ツキノワグマの生息域(エサ場)の拡大と人里への接近(里山のツキノワグマの存在)」も、近年のツキノワグマの大量出没の要因であると考えます

 

<守門岳の本高地沢を中心に標高1,000m以上のエリアと現在のツキノワグマの行動圏とを比較>

国土地理院の「地理院地図(インターネット版)」より

 

<守門山麓の標高330mにある集落内の河畔林。オニグルミの実は当地のツキノワグマの主要なエサ資源です>

<守門山麓の標高450mにある集落裏の旧薪炭林は最後の伐採から50年程経過し、アケビや柴栗(野生のクリ)が豊富なクマのエサ場になりつつあります>