山スキーの名山と造林伐採の記憶

~浅草岳からネズモチ平へ~

日本山岳会越後支部
ネイチャーガイド 桜井 昭吉

 

浅草岳は成層火山としての成り立ちを持っているが、急峻な福島県側とは対照的に、新潟県側は比較的傾斜がゆるく「山スキーに適した名山」である。私が山スキーを始めたのは昭和30(1955)年、今から60年前になる。もともと山登りの先輩に誘われて「脱ゲレンデ(スキー場)」から浅草岳・守門岳などの山スキーを初めていた。なかでも浅草岳が好きで五味沢の音松荘(山の宿・民宿)を登山基地に年中行事のように毎年登った。時期は3月の彼岸前後が多く、その頃はまだ新雪が深く(自分は)「ラッセル※1」要員だった。

 

当時のスキー用具は現在とは違って「山に登る道具の域を出ない祖末なもの」であり、先輩のスキー板は単板にフィットフェルト※2の締め具、自分は合板にカンダハー※3であった。コースはムジナ沢を登り、山頂から広大な早坂尾根を滑り、ネズモチ平を滑走して五味沢に帰るという「浅草岳を周回・堪能するスキーによるトレッキングコース」であった。

 

その後、昭和38年3月に高松宮殿下、三笠宮寛仁殿下とお姉様の寧子殿下の御一行が浅草岳にスキーで登られてから、「山スキーの名山・浅草岳」の知名度が飛躍的に上がった。その翌年から旧入広瀬村が主催するスキーツアーに多くのスキーヤー・登山家が集まり、その後のヘリスキーの時代へと発展してきた。

 

山頂からの滑降は長さ4.5kmの広大な早坂尾根を堪能し、尾根の末端にある右沢の「営林署造林小屋」に滑り下りた。造林小屋は二階建ての屋根まで雪に埋まっていた。(山スキーシーズンの頃には)すでに伐採準備の人たちが入っていた。造林小屋に寄せていただいて休憩をとった。ここから五味沢への帰りは右沢のスノーブリッジ(雪橋)を渡ってシール※4をつけずに急崖を登るのがつらかった。

 

苦労して急崖を登るとそこはブナの原生林であり、さらに「広大で真っ平らな湿原らしき平坦地」を横断していったことが思い出される。これが現在「浅草山麓エコミュージアムがある大野地」であったことが後で分かった。この湿原を過ぎて再び鬱蒼としたブナ林に入ると周囲の山々は見えず、太陽の沈む方向を目指してスキーを滑らせながら白崩沢橋に下った。

山スキー

 

※1「ラッセル」
登山用語。積雪の中を先頭に立って雪をかき分け踏み締めて後続のために雪道を作ること。

※2「フィットフェルト」
登山用語。登山靴でスキーを履くための締め具。靴の前後を主に皮革製のベルトで固定する。両足の踵の自由が利くことからスキーでの歩行に対応している。

※3「カンダハー」
登山用語。登山靴でスキーを履くための締め具。皮革製のベルトで靴の前部を固定し、靴の後部はワイヤーとバネにより固定する。両足の踵の自由が利くことからスキーでの歩行に対応している。

※4「シール」
登山用語。スキーを用いて雪山を登る際に、スキーの滑走面に装着する歩行時の滑り止め。当初はアザラシ(英名:seal)の毛皮をスキーの幅に合わせて使用した事から「シール」と呼称するが、現在では化学繊維製の滑り止めが主流である。